Health, justice, and a good life

健康と病気や治療、医療について、クリニック運営についてのブログ。

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がん患者にとって、情報は命であり、希望である。

がん患者にとって、情報は命であり、希望である。

は、年末にがん対策情報センターの10周年記念式典で、天野慎介さんの言葉から聞いた元「がん患者団体支援機構」理事長 三浦捷一さんのことば。感じるところがあって、三浦さんの本を読む。

がん戦記―末期癌になった医師からの「遺言」

がん戦記―末期癌になった医師からの「遺言」

 

本の中で奥様がおっしゃる「執念よね…」が強烈。「当事者」が声を上げること重要さが本当に伝わってくる。いや、ものごとを行うにあたって、当事者ではないことは知的好奇心や単なる興味(もしくはお金儲け)の範囲を超えられないのではないかと伝わってくる。 

さあ、自分に関係ないことをしている時間はないのだ。

医療の正しい情報がネットで手に入れられる時代が終わった。

気がつけば、医療の正しい情報がネットで手に入れられる時代はもうとっくに終わっていました。

ネットにあげられている情報が無知や悪意(や商売目的やデマ)によって書かれた健康や医療の情報なのか、医学的に正しい情報なのかをgoogleYahoo!の検索サイトは判断できません。そんなことを、今日まで無意識にネット検索し、取捨選択して利用していた自分がようやく気がついて愕然としました。

検索上位にくるのは、ほとんどがまちがったまとめサイトや商売目的のサイト(見た目が医療機関だったり医師が書いていたり、医学部卒(本当は医学部保健学科だったりする)や医学博士だったりを謳っているのがタチが悪い。。)。

これ、一般の方はどう判断し利用しているのでしょうか。外来で患者さんが訴える、しょうもない検索結果とそのせいで生じた心配を、笑って訂正していたのですが、もうそれもキリがなくなってきました。かつての、みのもんたさんの情報番組がかわいらしく思えてきます。ネット情報が患者を害する時代が本格的に来た、ということです(以前はみんながネットの情報を「参考程度」にしていたのが、最近のひとはガチにネットの情報を信頼して病気対策や医療の利用をしている、と感じます)。

翻ってみると、医療で使用するAI(人工知能)も患者の利用は慎重に行う必要があると想像します。教師つき学習されたAIの「教師」がなにか。名前のつかないビッグデータになるのか、誰かが認証するのか。出てきた結果を一旦専門知識で吟味する必要がありそうです。

(あっ、ここまで書いて、結局医師だったら正しいことを言っていることを証明する手立てが何もないことに気がつきました。。)

追伸:昨日、「いつも風邪のときには、ニューキノロン系の抗生物質を処方してもらっている。それしか効きません。」という元気な40歳代男性の患者さんがいました。こうなると、ロジカルに説得するのは無理です。。

戦争を経験した方々を失ってしまう危機感

迂闊だった。急に焦り始めている。

いつのまにか、周囲にいらっしゃることが当たり前だった存在が、もうすっかり貴重な存在になっていることに、臨床からすこし離れているためようやく気づく。

どこかで読んだ文章のように、「もう既に『私は(戦争を)覚えている』といえる人はほぼ誰もいなくなった、ということが真実である。私たち大多数にとって戦争は経験した過去ではなく、歴史なのだ」(原文はFreiという方の、異なった題材のもののようだ)。

僕にとって外来は、戦争の話しを聞くことがひとつの日常だった。焦る。永遠に失ってしまう前に、もっと覚えている経験された過去を聞きたい。時間がない。

ファミリークリニックと銘打った施設というハードウエアではなく、そこで働く医師や医療専門職の総合診療/家庭医療の訓練された機能や技術といったソフトウエアにこそ患者さんや社会にとっての価値がある

Appleの広告にあった”Think different”を思い出していた。


アップルCM「Think Different.」(声:スティーブ・ジョブズ)[日本語字幕]

世界をよりよい場所にしたいと信じる。まだできると信じる。

ジョブスつながりで、SonyAppleMicrosoftとの違いを語ったこの映像が示唆に富んでいる。


スティーブ・ジョブズが語る 'ソニー失敗の本質'と'アップルの本質' w/ Bill Gates @ 2007

表面だけ飾ったものでなく、本質で勝負する。そう思わせてくれる。 

追記:個人的にはSonyAppleも大好きです。。

男は黙ってサッポロビール的こころ

三つ子の魂百までとはよくいったもので、どさんこの40歳代男子は

「男は黙ってサッポロビール

と刷り込まれている。


男は黙ってサッポロビール CM

(まだ昭和だった)中学3年から通い始めた塾の塾長の授業で、まことしやかに語られた就職面接での伝説。飲料会社の最終役員面接で、緊張のあまりか、黙り込む男子学生。しびれを切らした人事担当役員が「もういいよ。帰りなさい」というと、学生はきりっと顔を上げ、出口まで歩き、最期に面接官達に向かって一言、「男は黙ってサッポロビール!」。そう、これはサッポロビールの最終面接。「合格〜」と思わず試験官がつぶやいた、とか。そういう話しに、「そうだよな〜」と思ってしまう北海道男子がここにひとり。

matome.naver.jp

演出はさておき、「男は黙って」信念に基づいて行動する、成果や善行、学歴や人間関係をひとに見せたりするのは恥ずかしいこと、自分の評価は自分でする、助けたひとの実数だけで評価するのだ、と思い込んでいるのは、三船敏郎さんの影響なのか。ちょっと生きにくい感じもするけれど。

小さな物語を生きる

道ですれちがうあの人にも、物語がある。それがかぎ括弧付きの大きな物語であろうと、名も無き変哲も無い日常であろうとも、恵まれていようが、困難に満ちたものであろうとも。その物語を尊重しながら、そのほんの一部である病気や症状の話しを聞く。

じっと母親をみるこどもの口元に耳を近づけて、自分の声で訴えるのを聞く。

 関係ない、庭先の木の様子の話しが、病気や老いの心配と結びつくのを待つ。

ひとつの方向に加速度を持って進む物体が、病気や心配で減速したり方向転換させられたりすることが、いかに困難か。さて、医療でなにか助けになるものかに全力で取り組む。

なにげない日常を扱っているレイモンド・カーヴァーが好きで、定期的に読んでいる。

Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選 (中公文庫)

Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選 (中公文庫)

 

 本人の文も好きだけど、村上春樹さんの翻訳もいい。困難に出会ったひとと向き合う時にいつも、A Small, Good Thingを思い出す。困難に直面したときこそ、困難への対処とともに、日常の部分を支える。そう心がけている。

http://christchurchlr.org/wordpress/wp-content/uploads/2010/08/A-Small-Good-Thing.pdf

さて、いつ死ぬのか

ああ、今日も生きていた。

そうぼんやり考えながら目が覚める。時々、涙がでている。

日常的に死に関わる医療職の方なら、ときどきこういう朝がある。

生きている、しかも平気で生きていることは40歳を越えると結構難しい。

「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」正岡子規『病牀六尺』

僕の場合は、こういう時に何人かの既に会うことのできない友人や患者さんを思い出す。

そして自分の番はいつなのか、と考えながら、重たい身体を起こすのだ。

ノーベル物理学賞の報道があってから、戸塚洋二先生の本を読み返している。

 研究者なら、自分の研究に没頭して、先端で成果をあげる先生の生き方に強く共感するところがあるだろう。”We will rebuild the detector. There is no question.”で始まる、スーパーカミオカンデの事故のストーリーは、何度読んでも胸が熱くなる。身体に変調や疾病があっても、それはそれで人生を形作るひとつの要素でしかない。いつ命がなくなるとも知れないのなら、自分はどの程度の濃度や速さで生きていくのか。生き急ぐこと、それ自体が命を縮めることはないのか…と迷わずに、花が咲くように、赤子が泣くように、一途に生きよと伝わってくる。