Health, justice, and a good life

健康と病気や治療、医療について、クリニック運営についてのブログ。

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研究者のいう「これが答えだ」が、気持ち悪いのは何故か

横断的観察でも、後方視的な情報にもとづくある程度の確実な”実証”であっても、もちろん手順を踏んだエビデンスであっても、医療政策や医療提供などの研究者が声高に、自分のもつデータからの解釈を講釈するのを聞くと、居心地悪くなることはありませんか。

確かに正しいことを研究者はいっている(かもしれない)。その「正しさ」らしさと、そこはかとないいかがわしさが、実行と実務に価値をおく立場(とその仕事を担おうと実践してきた者)としては、いつも気持ち悪く感じています。

それは研究者が、解決すべき課題全体にかかわらず、自分が利用可能なデータで前提(時に明示的ではない)を置きながらもっともらしく一般化し主張しながら、確実・不確実両方含めた意志決定のポジションをとらないからだと、理解しています。逆に恥ずかしながら、上記のような課題を部分に分けて考えたり、仮説で実証を分析して意味合いを出すのが苦手で、自分は研究者としてたくさんの業績をあげるのに失敗していると感じます。そういう自分に都合のよい仮説を実証するくらいなら、いまここにある課題に解をだす分析をだし、世の中をひとつでもよい世界にする仕事に自分の時間を使いたいと。

自分の理想とする社会につながる仕事をしていないときには、自分の足元の仕事に没頭し価値を見いだす作業が必要で、いま自分の仕事が楽しめているのも足元への没頭であるからこそ、研究者的側面の作業がおろそかになる。

自分の今の仕事と、自分の理想とする社会に貢献する仕事が一致するときに、自分の実務面の成果と、研究面の成果が一致してくるのではと模索模索また模索、です。

でもここで、はたと気づく。これまで書いてきたのは誠実な研究者のまっとうな役割ではなかったか。「じゃあおまえがやってみろ」という挑発ではなく、お互いがお互いの”役割”を尊重しながら、各々の知識と能力を駆使して、現実的な解を導き、実施して世界をよりよいものにしてく。このお互いの役割の認識が異なっていたり、片方が片方の仕事を自分がやればできると錯覚しているときに、気持ち悪さがでてくる、のではないか。