Health, justice, and a good life

健康と病気や治療、医療について、クリニック運営についてのブログ。

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個人がJMDCのTOBに参加してみて経験したこと(途中経過)

研究者として働いているときから、そこで働いている人であったり、データであったりをちらほらお目にかかることがあったJMDC(コード番号:4483)という会社が、筆頭株主だったオムロン連結子会社になる目的で株式公開買付(TOB)の対象になるという。

www.jmdc.co.jp

ちょうど単元株とちょっとだけだけども、興味本位で手元にあったので、これまた興味本位で個人がTOBに参加してみて、

  • プロセス(どう参加するのか、どの程度の手間と時間がかかるのか)」と
  • 結果(どの程度買い取ってもらえるのか、最終的な収支は)」

はどういうものなのか、オンゴーイングで記録してみたいと思います。

 

公開買付価格はいくらか?

【9月8日金曜日】

オムロンが、JMDCに対してTOBを実施すると発表しました。公開買付価格は5,700円で、値付けの経過は以下の資料に詳しいです。

https://www.jmdc.co.jp/wp-content/uploads/2023/09/news20230908.pdf

「不合理な価格ではないものの、少数株主にとって十分な投資回収の機会を提供 しているとまでは言えない」として、再三に公開買付価格の引き上げ提案をJMDCとオムロン間でおこなっての判断がわかります。直近の最高値は6月20日の6,460円で、それと比較すると見劣りするものの、いろいろとタイミングというものがあるのだなあ、という感じです。株式価値の算定は、

  • 市場株価法に基づく算定(4,411 円~5,221 円)
  • 類似公開会社比準法に基づく算定(2,830 円~3,207 円)
  • ディスカウンテッド・キャッシュ・フロー法(「DCF法」)に基づく算定(5,305 円~6,484 円)

の3つを用いたものを根拠に挙げていました(上記pdfリンクのp18以降に詳細あり)。随分と異なる算定方法間でばらつくものですね。タイミングや各々の思惑を想像するに興味深いです。

9月8日時点では、あー健康保険データが一般向け健康機器メーカーのものになるとどうなるかの妄想が主で、直近に下落していた株価も発表されているTOB価格にさや寄せしていくものの、さてどうなるのかという関心程度でした。

【9月11日月曜日】

どこの証券会社でTOBに応募できるのか?

自分が口座を開いている証券会社であればどこでもTOBに参加できるの?

(つづきます。。。毎日更新!)

 

医療とケアと叙情的・叙事的

看護師であり研究職でもある友人が、鼻水鼻づまりで近くの医院にかかった時に

「医師を怒らせないで、こちらの要望をつたえるのは結構大変」

だったと言っていた。

何をいっているのか一瞬分からなかった。患者の要望を聞いた医師がなぜ怒るのか理解できなかった。

と思えば、話を聞いていた周りの人は「そうだよね〜」と理解を示している。

あれ?

感情的に仕事をする医師って間違っているし、めんどくさそう。医療は事実と技術で、提供されるもの。診察時点で達成できる最大の効果をあげる検査や治療やセルフケアの選択肢を示し、その人が受け入れられるものを、見通しとともに提供する。

「医師は感情的に仕事しない」といっても自分の胸中では感情的だし、生身の姿を人前にさらけ出す覚悟が診療には必要であること、患者の感情に応えて診療することの厳しさ、怖さを日常的に当然感じてはいる。しかし、この感情の叙情的な部分は、セリフのようにかわされるものではない。感情にまかせてとるコミュニケーションでは、語尾も曖昧だし、問いかけも不明瞭だ。ああ、でも時によってもごもごとした感情表現だったとしても診療の会話は成り立ち、患者が支えられ、安心することも経験する(とこちら側が勝手に感じている)。志ん生師匠の落語のようでもある。と考えると、医師の患者への感情表現は、患者を癒やす手段としてのみ表現されるべきであって、情動にドライブされて表現するべきではないのは明らかだ。

小学生のときから泣き虫で、ドッジボールで負けては泣き、テストで負けては泣いて、いまだにことあるごとに泣いているけど(さっきまで映画を観て泣いてました)、自分が感情的で叙情的な表現を好み使用するのと、感情的に仕事をするのは全く違うと、改めて思いますが、いかがでしょうか。

自分の感覚と医療との距離

自分の近しい友人が建築家で、以前から勝手に建築を身近なものとして感じている。

自分の世代は「建築」というと、ややものものしく、磯崎新さんの東京都庁のような、丹下健三さん国立代々木競技場のような、機能だけでなく、思想や芸術を含み構成されている「建築」を思い浮かべるのではないだろうか。一方で周囲にあふれる建築らしきものは、古くからあった100坪程度の土地に新しく3件の細長い3階建てが立つような、表面がきらびやかなプレハブ木造建築や、大手デベロッパーの定型ブランドマンション群のような、「建築」という言葉からはすこし距離を置いた、日常の建ものや住まいといったものだ。自分が身近に感じている「建築」とはすこし異なっている。

どこかの文章で、妹島和世さんが伊東豊雄さんの事務所に勤めていたときに、伊東さんが妹島さんのご自宅にあったアンティーク家具やレースの飾りをみて、

「あなたが建築でストラクチャーがどうだとか言っているのと、この自分の部屋のアンティークな家具やレースの飾りはどうつながるのか?」

と問われたとあり、建築家としてはどの建築も住まいもつながっている、らしい。(公共建築と住宅の違い、の話しともいえますが、まあその辺は置いておいて。。)

そしてはたと、医療にも

「あなたの日常と、あなたが提供する医療とはどうつながるのか」

という問いが立ち現れているのだ、と気になる。これを医療従事者に問うべきなのでは、と。健康や病気や、病いとの関わりは、医療従事者において仕事と仕事以外を分けて考える、考えたくなる気持ちはよくわかる。医療の腕さえ良ければ、仕事以外ではそのひとの嗜好にあったありようであってよいのだ、とはその通りだと思う。

そこから逆戻りしてもう一度、「あなたの日常と、あなたが提供する医療とはどうつながるのか」という問いが立ち現れているのだ。これを医療従事者に問うべきなのでは、と蒸し返したい。しつこいけれど。つながっていないと突き放すのは、現実から眼を背けているだけなのだと、ウソをついているのだと突きつけてみたい。

この問いへの態度が、もしかしたらその医療従事者の規範を測る尺度といえるかもしれない。

 

Stay hungry, stay foolishであるとは。

ティーブジョブスのStay hungry, stay foolish.に共感しつつも、日常の怠惰にながされてしまう自分に嫌悪していたけれど、よくよく考えてみれば、hungryでfoolishってば日常にはない自分のありようですよね。さてhungryでfoolishとして自分を惰性や常識から解放してくれる「あり方」みたいなものは、なにか。どこにアンカーすれば、hungryでfoolishな自分を保ち続けられるのか?

なんだか思考の順番が逆な感じもするけれど、答えは意外なところにありました。佐野元春さんが歌っていた。。。

 

www.youtube.com

恋とか情熱とか。

自分が恋とか情熱とかにドライブされているときって、眼がギラギラして息がハアハアして、文字通りのhungryでfoolishな、すべての周囲の期待を振り切り、自分の求めるところへ一直線に疲れを知らずに突き進める。

恋とか情熱とか、にもみくちゃにされながら生きよ。それ以外に惑わされるな!

医療というのは、国際的なレベルで語らないかぎり意味がない。つまり、国際的に自分の診療がどういう位置にいるかを常に考えていない診療は自己満足になる

新聞記事で本庶佑先生のノーベル医学生理学賞受賞に関連する報道を読むと、本当にワクワクする。そして、私自身の文脈に変換されて意味をもつフレーズもある。

www.asahi.com 

このなかで、早石修先生の教えとして

サイエンスというのは国際的なレベルで語らない限り意味がないと、つまり、国際的に自分の研究がどういう位置にいるかということを常に考えていない研究は自己満足になる

 とは、医療においても同様だと感じています。つまり

医療というのは、国際的なレベルで語らないかぎり意味がない。つまり、国際的に自分の診療がどういう位置にいるかを常に考えていない診療は自己満足になる

 のだと。

各医師オリジナルな意見は尊重しながらも、それを偏りのすくない形で国際的な議論の載せられるかが、診療の質の判断になります。「自分の経験ではこうである」といった主張や、「エビデンスがある」とうそぶく言説や、妙に説得力のあるもっともらしいロジックは常に、「国際的なレベルで語ってみる」というすこし辛いフィルターをかける必要がありそうです。お試し下さい。

家庭医のひとり診療所は都会で存続可能か?

前回の投稿であった「はじめてロンドンで登録した小さな家庭医診療所」は、インペリアルカレッジから歩いて通える距離のアパートに住み始めた時に登録したところです。インターネットで検索して、一番近いクリニックに登録したくて、ひとまず登録ってなんだと歩いて様子を見に行きました。

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こんな住宅のひとつがクリニックでした。

扉を開けると簡素な机に座った婦人が受付をしてくれました。普段着の素敵な、近くに住むお姉さんの感じで、さあお入りなさい、と。登録したい旨と、留学生なのでこれからどうすればよいのか分からないということを、たどたどしく英単語をつなげた言葉で伝えると、ああそうよね、新学期の季節だね、と飾らない言葉で緊張をほぐしてくれる。いくつかの必要な書類について教えてくれて、その日は終了。待合室と呼ぶべき中の空間は、古いソファと歩くときしむ床、その後何度も他の場所でみるよくある住居の居間のような空間でした。後日訪れて診察室にもおじゃまする。簡素なベッドと見慣れた必要最小限の診察道具とともに、リラックスした様子の家庭医が座っている。概念的に語られるゲートキーパーやゲートオープナーや、レントゲンや内視鏡やCTがクリニックにないことや、待ち時間が長いことなんかはどうでもよくなり、きちんとトレーニングされた家庭医が落ち着いて存在して、どんな健康問題でも相談してね、といってくれることに圧倒的な存在感と安心を感じたのでした。これはいいね、と。

結局、家族の妊娠で助産師さんを紹介してもらった以外には、そこのクリニックにお世話になることはありませんでしたが(子供が生まれてからは、引っ越し先で本当にたくさんの家庭医(GP)にお世話になりました。。)、その「小さな家庭医診療所」は私の頭にのこり、今回の開業のモデルとなっています。

家庭医ひとりのキャパシティで、近隣の方へ家庭医療診療を行う。患者さんがアクセスしやすい道路沿いの1階に扉を開けて、どの年代の患者さんも来院できるように外来を開けておく。まずは診療内容をきちんと世界標準に定め、提供できる診療体制整備を行う。継続して運営可能な体制を整える。新しいことや余計なことはせず、継続して診療して長期的な安心を提供する。単独では成立しないのが家庭医療クリニックであり、近隣の医療機関や医療専門職・介護専門職・福祉専門職や行政機関と連携し、健康問題解決や日常生活支援を提供する。来院できない方へは訪問診療の選択肢もある。乳児健診や予防接種から生活習慣病管理、よくある疾患の診断や管理とともに鑑別診断が困難な例へのアプローチにも情熱を燃やす。アレルギー診療や感染症診療も実施し、診療科横断的な診療をして、認知症在宅医療や在宅緩和ケアまで提供する。トレンドやイノベーションは柔軟に採用しながらも、根幹はぶれずに実践するために、ひとりでやってみたいし、国内外でも実践できている先例はある。

医療提供サイドの覚悟と準備はできました。さて、皆さんにどのように使って頂けるかが次の課題です。クリニックでお待ちしております。

ひとつ終わって、次をはじめる:クリニック開業しました

73回目の終戦の日がすぎ、今上天皇戦没者追悼式に参列される最後の機会だと知って、ひどく驚いてしまう。戦争が経験ではなく歴史となっていくことは、避けられないながらも、元号がかわることに直面して、否が応でも時間の経過とその不可逆さを痛感する。

診療所外来で年配の方とお話しするときの定番の話題は戦争の経験だ。からだの話が一息つくと、若輩者の私に多くの年長の方は自身の経験を語ってくれる。カチャカチャと音を立てるキーボードから手を離し、ぐっとその話に聞き入る。食糧事情や学校のこと、工場での仕事や日常生活の話し、徴兵され従軍した話しの最後に、さらりと抑留の話がでたりする。軍での訓練の内容も、爆弾を抱えて走り、戦車の下に潜り込む訓練だったりする。「軍人として訓練をうけていない学徒は、戦闘の技術がなく、自爆する訓練を受けたんだよ」と言ってすこし笑い、ぽろぽろと涙を流す。天井を仰いで私も泣く。特に暑い夏のこの時期には終戦の記憶とともに、患者さんが少ないこともあり、生活や死生観を知る機会にもなり、70年以上まえの話しを積極的にする。

そういう日常の中にあった、大切な患者さんのひとりが亡くなったことは大きな喪失感となった。他のひとはこういう時間をどう感じているのだろう。ひどく焦る。呼吸が荒くなり、動悸がする。迂闊にも永遠に失われてしまったことへ準備ができてなかった後悔。話しを伺っているfamily medicineは仕事なのだけれど、自分の人生とは不可分で、いま自分が人生の中ですべきことと、これからの残り時間と、そこでなし得ることを考えて、廊下をうろうろする。

いままで経験してきて分かっている、時間がかかることを今からはじめよう。大切な人たちを大切にできる自分ができることを今しよう。様々な可能性のなかで、改めてfamily medicineでいこうと決断する。大上段に振りかぶり見得を切りながらも、地に足をつけて。

ということで、自分のクリニックを始めました。はじめてロンドンに住んだときに登録した、近所の家庭医みたいなちいさなクリニックですが、診療内容は骨太の世界標準のfamily medicineを基準としています。さらりとfamily medicineできるようにするには、時間がかかりそうですが、スタッフ一同(私と家族だけですが。。)頑張っていきますので、よろしくお願いいたします。